その男、冷森につき

売れっ子ミュージシャンが、だらだらべたーっ、うにょーん。

村上冷森です。
だらだら、ベタベタ、うにょーん。

 古今東西、時代が新しくなるに連れ、それに合わせた概念や思想、現象に新しい名前が与えられ人間の意識のアップデートに大きな貢献を果たしてきた。

「パラダイム」
「ジェンダー」
「Z世代」
「メンヘラ」
「失われた30年」
「バブル景気」
「アベノミクス」
「鉄のカーテン」
「サッチャリズム」
「宇宙船地球号」
「ロスジェネ」
「陽キャ・陰キャ」
「新人類・太陽族」
 
 などなど。言葉が与えられることによって、人は概念を認識できる。
 逆に言葉がなければ、人間はその概念を認識するのは難しくなる。
 言語と概念、さらには言葉という記号の意味といえば、クリプキ、カント、ソシュール、ウィトゲンシュタイン等々の聡明な先人の遺した偉大な思想に思いを馳せる者も多いだろう。
 ぼくもそうである。
 今日、ぼくは、新しい言葉を作った。発表してみようと思う。
 その言葉は、ズバリ


「ヘイト・ポートレイト」である。
 
略して「ヘイポト」である。


「フェイク・ポートレイト」でもいいのだが、「偽物」というより「悪意に基づくもの」としての意味合いが強いので、「ヘイト・ポートレイト」にした。「悪意あるクソコラ」とも言い換えることができる。仕組みとしては「ディープ・フェイク」に近い。そしてこれらは、個人への攻撃を目的とするものへの概念であり、それに、人の写真や肖像に限られるものなので、「ヘイト・ピクチャー」にもしなかった。
 
 ヘイト・ポートレイトとは。


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【ヘイト・ポートレイト】

「誰か個人の名誉を著しく毀損、また、公共のイメージを下げる目的で、明らかな悪意を持って特定の個人の肖像や経歴に悪意のある加工をしたもの」
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 では、この言葉の意味を理解するため、ぼくの名前「村上冷
森」を手っ取り早くgoogleで画像検索してみよう。

 本来であれば、他愛もないぼくの写真

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 こういうのが出てくるはずである。
 しかし、こういうものも引っかからないか?

スクリーンショット 2024-03-15 8.16.20スクリーンショット 2024-03-15 8.15.33

 明らかにフォトショで目や口に不自然な加工が加えられている。本人が見ても気持ち悪い写真だ。グロ画像と言ってもいい

 
この画像は、ある時を境にいきなり出現した。
 ぼくの周りはネットストーカーが入れ替わり立ち替わりいるのだが、その中の特定の一人を思い切ってブロックした時期だ。ブロックされた人は、ブロックされたことをひどく落ち込んでいたが、こっちとしては、その人のストーキング行為が、ぼくの表現活動に悪影響を及ぼすと判断し、ブロックした。ちなみに、悪影響を及ぼさないと判断しているネットストーカーは、キリがないので放置している。
 証拠がないので断定はできないが、恐らく、その人物がこの画像を作ったのではないかと推測している。今後は開示請求も積極的に行おうと思う。

 
 それはいいとして、もう一つ尋ねよう。もしこれを読んでいるキミが「村上冷森」と検索して変な画像を掘り当てた時、キミは「この画像が見たかった」と思うかい?

 多くの人は違うだろう。なぜ見たか、説明しろと言われれば、「検索したらヒットしたから見てしまった」ではないか?

 おそらく普通に想像するのは、こういう画像だろう。

自撮り・トリミング のコピー

ギター弾いてる・トリミング のコピー

202310月いつかのサムネイル3-2 のコピー2

 普通である。しかし、こっちは検索のはるか下だ。

 なぜこうなるのか。変な写真(ヘイト・ポートレイト)がGoogleの検索エンジンで最初に来て、時間帯にもよるが、なぜ普通の写真はその下なのか。
 本当はみんな、変な写真が好きだから? NO。
 本当はみんな、村上冷森のグロ画像が見たいから? NO。
 答えは、単純に変な写真をアップする人たちが、そのように細工しているからである。検索エンジンの仕組みを悪用し、恣意的に操作するのだ。例えば、その画像へのアクセスだけを異様に増やしたり。詳しくは、Google爆弾、または「サジェスト汚染」などで調べていただけると分かりやすいと思う。



 そして、ニコニコ動画でも同じ現象が起きている。
 ニコニコ動画で「村上冷森」と検索すると。
 まず、ぼくがアップした歌の動画が出てくる。

 村上冷森ニコニコ動画・トリミング のコピー

 再生数はだいたい40回かな。大半はYouTubeで見ていらっしゃるので、ここにぼくは力を入れていない。ここでは、YouTubeと同じ村上冷森の歌が聞ける。しかし。

 ヘイト動画スクショ・トリミング のコピー

 ここいらの動画も出てくる。ぼくも試しに閲覧したが、たった16秒。しかも音楽なし。なのに、だいたい600から800ぐらい再生回数がある。


 ぼくは、この動画を再生した人に訊きたい。

「本当にこの動画が見たかった?」
「チルノのパーフェクトさんすう教室の方が良くない?」
「この動画見た人は明らかに人生の貴重な16秒を無駄にしてるけど大丈夫そ?」

 冗談はさておき、「ヘイト・ポートレイト」の定義には、これらの動画も含まれる。ちなみに、ナマポ(生活保護)の受給は、ぼくにはない。それに、「元犯罪者」って何だ。犯罪者は犯罪者である。ぼくは、その十字架を一生背負う覚悟を持って生きている。
 どうせなら、「犯罪者」と、堂々と書け。前科者でもよい。


 そして、この映像を作った人に訊きたい。


「何が楽しいの?」と。

 おそらく、これからの時代、こういう個人攻撃はネットの普及と共に増えていくだろう。今でもずいぶんと酷いが、これからもっと酷くなるだろう。なぜなら、昔よりも誰もが簡単に出来るからだ。90年代ならインターネットに接続すら出来なかった人も、今では90年代に比べてはるかに低コストで最新技術に触れ、ネットに接続・発信できる。その中には、文章はおろか、字もマトモに書けない人間も含まれることを忘れてはならない。要は、子供の悪ふざけが社会に牙をむく時代になっているのだ。


 そして、「ヘイト・ポートレイト」という言葉も、今後「ヘイポト」とか略されて


「ヘイポト作りが趣味なんです」
「お前のヘイポトが落ちてるぞ」
「キミってヘイポトされるほど有名人かぁ」
「さっさと金返さんとてめえのヘイポト作るぞコノヤロー」
「あたしはヘイポト」(aboの歌)
「ヘイポトを享受せよ」(ゲーム)
「ヘイポト図鑑」(又葉社)


というように使われるだろうと考えている。この場合の「ヘイポト」とは、「クソコラの進化形」のような感じだが、意味合いとしては「悪意あるクソコラ」「呪われたクソコラ」「可視化された悪意」という方が強い。「悪意が可視化されているかどうか」というのも、重要な基準となるわけだ。


 だからこれらは、AI(人工知能)には作れない。なぜなら、人工知能には悪意という感情がないならだ。今のところは。重要なのは
人間の悪意だ。人間の悪意が、インターネットをサジェスト汚染し尽くし、検索結果が人間の悪意で埋め尽くされた、悪意の掃き溜めに過ぎなくなる時代が来るということだ。インターネットが人間の悪意で汚染され尽くす。インターネットが大衆の生き霊に呪われる。お分かりいただけるだろうか。群集心理や、プロパガンダ、社会学をしている人には分かりやすいかもしれない。


 そうなると、もうGoogleで検索して出てくることというのは、確かな情報ではなくなる。
 単純に本当のことを知りたい人にとってみればGoogle検索は単に信頼できないものとなる。「本当のことが知りたいのに、ヘイポト見て気分を悪くしたくない」と思う人も増えてくる。それを知ってか知らずか、今の若い世代はもう、余程のことがない限り「ググらない」人が増えた。


 10年ほど前は「ggrks(ググれカス)」と言って、「分からないことがあったらGoogleで検索しろ。そうしない人間は愚か者だ」という風潮があった。ぼくもこの言葉は、ぼっちぼろまるの監修をしていたヲタキチ氏(学生時代の大先輩)に散々言われて馬鹿にされたものである。


 「ヘイト・ポートレイト」は、悪意と憎悪が肖像へと暴走したもので、それがインターネットというトイレに流れた結果である。だから当然、ぼく、村上冷森の場合を考えても、ヘイト・ポートレイトの発信者たちは、村上冷森のイメージを低くするためにあらゆる手段を辞していない。その中には嘘も含まれるし、加工・改ざん・経歴詐称・学歴詐称・そして何より悪意が含まれる。だから、これらの「ヘイト・ポートレイト」や、それらが発する情報全て、信頼できる情報ではないのだ。まるで、悪魔に取り憑かれた人間の言うことが信頼できないように。


 ヘイト・ポートレイト、それは、「個人攻撃を目的とするプロパガンダ」とも言い換えられる。そして、これを鵜呑みにしている人は一定数いる。一定数いるということは、この「ヘイト・ポートレイトの発信者」からすれば大成功なのだろうが、作る者にも信じる者にも言いたい。


「それで人生、楽しいか?」

 ここんとこ、書くことがなくなってしまっている。
 やることと言えば、お仲間募集のポスターを貼るキャンペーン周り。ライブ出演は声帯炎のため控えている。それ以外にも神戸のライブはキャンセルしたし、漫画賞を取り逃がした。

 昨年末から調子が悪いのが続いている。昨年末の豊崎神社の祭りでは、お誘い頂いた方が、そもそも機材を用意しておらず、ぼくが持参した機材は故障し、パフォーマンスができなかった。

 一部のライブハウスから「村上冷森は大阪全体のライブハウスから出禁を食らっている」というデマが流れた。それはデマだったし、それにそもそも、大阪のライブハウスはそこまで連帯していない。

 ぼくを大阪のライブハウスに出してほしいという迷惑な署名運動が展開された。

 勧められたとあるレコード会社はなぜか喧嘩を売ってきた。

 新年入ってからも、東京の下北沢で、ぼくがライブの日だけ記録的な大雪が降った。

 薄幸体質である。

 なんか最近、運が悪いだけで企業や異性から嫌われるそうなので、運を上げよう。このままではいけない。明日神社に行こう。


 先日、そんなぼくに、ぼくの元彼女の千夏クレイジーについて、

「千夏クレイジーさんさ、コミティア出展したらしいよ」

 だって。


 いらん報告すなよ。誰とは言わんけど。


 ぼくも対抗して、新作作ったり、企画案を書きまくろうと思う。


 そういえば、コミティアの参加、何度かしたな。ぼくが最初にコミティアに出品したとき、ぼくの盟友が、その本を国立国会図書館に寄贈してくれた。

 二回目もコミティアに行ったが、それは後輩の付き添いだった。その後輩は女性で、ぼくの後輩、つまり芸大生で、つまり女子大生で、売っている商品は大したことなかったが、くる人はみな、その後輩を「女として」見ていて、作品を買うのは「ついで」という感じだった。あの時は「女性はいいな、女性ってだけで売れて」と思ったものだが、今考えると、そんなことはない。そういう人はものすぐに忘れられる。今は消えてしまって、ぼくも名前を覚えていない。

 簡単に手に入るものは、簡単に無くなってしまうものでもあるらしい。


 にしても、ぼくの同人誌や本は、案外すぐ売れる。だから、ぼく自身も自分の本を持っていないことがほとんどだ。「イライザ」「殺し屋崇拝」しか持っていない。あとは全部、売ってしまった。

 数ある村上冷森の同人誌の中でも、「I LOVE YOUの和訳」という本を売ってくれないだろうか。100冊ほどしか発行しておらず、飛ぶように売れたのだが、自分でも読みたくなった。我ながらいい本なのだ。

 そういえば、夏にラジオ番組出演が決まった。
 それまでに、バンドメンバーや仲間を探したい。宣伝できる媒体も押さえてるよ〜。

 ぼく、村上冷森が自分1人の活動に限界を感じてから、半月ほどになる。
 2月中旬に東京から帰ってきて、その足で新たな活動を始めた。新たな活動とは「活動を共にする仲間を募集するキャンペーン」である。その中で、いろんな人と会い、いろいろ励まされたり、協力してくれる人ができたり、場所ができたり、裏切られたりした。そして、つくづく感じることがある。それは、当たり前にできるはずのことでも、それができるのは実は凄いことなのだ、ということだ。

 よく、ぼくが今のキャンペーンを説明するとき、音楽スタジオやライブハウスでは「バンドメンバー募集ですね」と言われる。こっちもいちいち説明するのが面倒なので「はいそうです」と言うが、正確には違う。楽器なんかできなくても良いのだ。

 楽器ができなくても、例えば、ライブ会場でぼくの演奏の評判や会場の雰囲気を調べ、長所や課題を集め、長所はプレイヤーに伝えてやる気を上げ、課題は次のスタジオ練習での宿題にするような、その「照準合わせ」だけでも、大きい役割である。そういう人はビートルズやボブ・ディランの裏方にもいたし、また、そういう影の存在なしで成功する方が不自然とまで言える。編集者がいないのに漫画家だけで漫画が売れるぐらい不自然である。

 また、昨今は「他人の欠点を論(あげつら)うのが無条件に良いこと」みたいな風潮が、特に東京のビジネスマンに多い(偏見)ので、あえて言うが、もちろん、そういう影の存在の役割は、課題や欠点の指摘や指導だけではない。長所を見つけたら、それに合わせたセールスの仕方を考えてくれるのも嬉しいことだ。例えば、ライブでトークがウケているから、ラジオ番組はどうか、とか、演奏でも特に優れた楽器演奏があれば、そのプレイヤーだけ他のバンドのヘルプに回れるように手筈を組んで、そこからバンド同士の交流を深め、新たなイベントを組み、企画書を持ってライブハウスを回ったり。

 そこまで望むことはしないが、以上は、楽器ができなくても音楽家に貢献できることを思いつきで少し書いてみた。ぼくのような小さい脳みそでもパッとこの程度思いつくんだから、ごく普通の利発なお方ならこの10倍は思いつくはずだ。

 しかし、問題はここからだ。ぼくは、自己紹介のフライヤーを作っている。いつも、早くに配り終えてしまうので困るのだが、先日、このフライヤーを、ぼくと手分けして配ってくれる、という人が現れた。

 仮にSさんとする。ぼくの常連のお客さんだ。
 
 しかしこの人、ぼくのフライヤーを持っていなかった。なので、近日に直接会って、ぼくが配る分を渡しに行くことになった。そしてその前日。ぼくはYouTubeで雑談の配信をしていたのだが、そこで、その時に直近で行っていた東京で出会った人や出来事の話題になったとき、


「それは障がい者差別だ!」


 というSさんのコメントが飛んだ。ちょうど、YouTubeにあるぼくの歌の録音環境を誹謗中傷した人の声色を、ぼくがマネしたときだった。

 ぼくは「?!」となった。

 ちなみに、ぼくの歌の録音環境を誹謗中傷した人は、べつに障がい者ではない。
 それはいいとして、実は「声色を真似する」というのは、海外では差別に当たる場合がある。筆頭として、よくお笑いコンビ中川家の、韓国の焼肉屋・中国の料理人・グアム島の税関モノマネが「それっぽい」と言う人がいる。
 しかし、実際に障がいを持っている人のモノマネはどうなのか。差別に当たるのか。というよりも、モノマネされた当事者はどう思うものなのか。
 以前、この問題は、NHKのバリアフリー・バラエティ「バリバラ」で、かなり深掘りされていた。そこには、障がいを負いながらも芸人である方が何人も出演されており、ぼくの感想というか、結論としては、「障がい者だからって、腫れ物に触るように接するのは可笑しい。それでは、相手が障がい者だからというだけで、その人と必要以上に距離を取ってしまうことになる。それは、その人の障がいを理解することとは程遠い。むしろ逆だ。もし本気でその人の障がいを理解し、バリアフリーな関係を目指すなら、時にこっちが差別的になってしまうことを恐れず、相手の意見を尊重しながら、こっちの意見も言いつつ、距離感をお互いに考え、歩み寄っていくべきではないか」と、ぼくは考えた。


 そんなことはどうでもいい。話を戻そう。肝心な「障がい者差別のSさん」である。

 結局、ぼくが直接会って、まとまったフライヤーを渡したものの、配っている気配はない。というか、それ以降、何に呪われたのか、取り憑かれたのか知らないが、Sさんは自身のツイッターアカウントで暴走を始めた。議題は「ネトウヨの撲滅」と「反・アイヌ差別」のような感じであり、そのようなアカウント(ネトウヨだったりアイヌ差別しているアカウントだったり)に手当たり次第暴言を浴びせて喧嘩を始めた。ぼくは1日中ツイッターに張り付いているわけにはいかないのでたまに見ていたが、どうやらSさんは1日中24時間ずっと喧嘩しているようだった。

 そして、何の実りもないまま、最近、そのアカウントは凍結された。

 Sさんは何がしたかったのだろう。

 フライヤーも配らず、ネットで暴れて。

 もともと、ぼくの役に立ちたいというのはSさんからの申し出だったのだが、ぼくの言動を差別だと決めつけたり、ネット喧嘩をして、自分が約束したことすら反故にしてしまう。なぜなのだろう。





       わからない…




 ぼくの過去を省みれば、落語家さんのお手伝いをさせていただいていたことがあり、その時は、させていただけるだけでもこの上なくありがたいと思っていた。やりがい搾取? いや。ぼくが能動的にやっていたし、そのおかげで、大阪文楽劇場の人形浄瑠璃や、京都南座の歌舞伎も毎年見れた。いや、そんな話はどうでもいいとしよう。それにぼくとて、その落語家より自分が上等な人間かと言われれば、非常に疑問である。

 いろいろ言いたいことはあるが、ぼくが最近「活動を共にする仲間を募集するキャンペーン」で求めている人の敷居は、非常に低いということだ。つまり、「言われたことを、言われた通りにできる」だけで、すごいのだ。大歓迎なのだ。

 あと、欲を言うとすれば、陰で5ちゃんねるで村上冷森のヘイトを流さない、ニコニコ動画でぼくの顔を変形させた画像の動画を流さない、程度である。簡単だと思うのだが。

 難しくないという方は、どしどしメールください。メールの文面の礼儀とか、一切問わないので。

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